『すくいのあまがみ』


 
夢喰は夢を喰らうが、自身は夢を見ることがない。
しかしその場合、夢喰が夢と認識したフェノメノンは成立しないことになる。
夢の知覚や分析は、分野は異なれど大きな研究課題となろう。
 

[精霊の敬愛事由/著・ドロゥジーより引用]

***
 
 
”ボク”が生まれた理由、なんだろう。
悪夢にうなされるヒト達の悪い夢を、食べるため。

『キミが生まれた理由は、なんだろう。』
 
 
”私”の生まれた理由?

『さぁね。
 そんなもの、ないのかもしれない。』
 
 
***
 
 
闇が、覆う。
漂う空気全体が、どっしりと重く。

今宵も、夜がやってきた。
灯をつけていても、いつの間にか私の周りは闇に包まれる。
そうして、ほうほうと、何か蠢くような声が聴こえてくるのだ。

何にもとらわれず眠りについたのは、どれくらい前のことだったろう。
私をとらえる「何者か」が現れたのは、いつのことだったろうか。
己に問いても、もはや答えは出ないのだ。
きっと少し前、昨日のことだと――そう思う他にない。
そうでもしなければ、きっと誰も私を慰めなどしてくれないだろうから。

私は、夜が好きだった。
月の煌々とした明かりで、室内がぼんやりと照らされるのが美しく、
窓の外を眺めながら、歌を口ずさむのが好きだった。
しかしもう、そうして静かに過ごす夜を二度と過ごせないと思うと、今もやるせない。

誰もが、一度は思うことがあるだろう。
どうして自分が。
私は、何も悪くはないのに。
私に与えられたのは、死よりも重い呪い。
自我を消失する恐怖、そして。
すぐそこにあるたったひとつの希望に届かない、願い。

今夜も、悪夢は覚めない。
眠っても、起きても、目の前は真っ暗だ。
ここはどこだ? 私の家だ。
私はだれだ? 私はミコトだ。

よかった、まだ覚えている。
明日、一時間後、いいや一秒後には、忘れているかもしれない。
私は今宵も自身の名を胸に、そして爪を立てて、腕に刻んだ。
私の身体に傷をつけたのは、私だ。
他でもないこれは、私のいのちだ。

誰のものでも、ない。
 
 
***
 
 
「ラミラミ、お肌が荒れてるわ~ン!
 夜更かししてるんじゃな~い? ダメよ~ン、乙女の敵なんだから~ンッ!!」

「やだぁん。分かる? カカヌン。
 昨日、元カレの夢見ちゃってサイアクなのん!
 ちょっとカシュ、今夜あたしの夢を食べに来て欲しいのよん。」

「なんだよ、ラミアンジェ。
 予約は基本的に受け付けてないんだけどぉ‥‥。」
 
 
天窓から何羽も行き交うコウモリの影が落ち、闇夜喫茶の店内をより妖しげに演出する。
ゴシックな装飾にキラキラと蒼や翠、黄金の宝石が暗がりに瞬き、
テーブルを囲う三人の女子の肌を、色とりどりに反射して見せた。

元気がないと言う割に、定番のやみどんぶりや、
期間限定のウルトラマリッジパスタは、彼女によってすっかり平らげられていた。
大きな耳を揺らしながら、隣に座るカシュはため息をついて横目に見る。
 
 
「でも、仕方がないね。キミのお願いなら。」
 
 
少し間をおいて、ため息で踏ん切りをつけたように頷いた。
あん、と艶めかしく声を漏らして、両手の指を絡めながらうっとりと礼が返される。
 
 
あーあ、ボクってば優しすぎるんだ‥‥おっとぉ! 自己紹介が遅れたね。
ボクは夢喰の精霊、カシュ。

誰かが見ている悪~い夢を食べて、安眠させることが仕事なんだ。
でも本当は悪夢だけじゃなくって、夢ならなんだって食べられるんだけどね!

いい夢は美味しくないから食べないだけで、
悪い夢は美味しいからいっぱい食べる。
これって、いい関係でしょ? ”うぃんうぃん”って言うんだよね。
世の中、ホントうまくできてるよ。

悪夢を見つけては食べてを繰り返す夜長は、
お菓子を食べ歩いている感覚と、あんまり変わらない。

とびっきり悪い夢は、もちろん夢見人が苦しいほどに味がいい。
芳醇で、すっきりするものからこってりするものまで、いろいろ。
もうウンウン唸ってるヒトの悪夢もね、ついついもっと辛くなるまで寝かせて‥‥
起きるギリギリのところでパクンと行くと、もう最高!

あ、もちろんボクだって女の子だし、甘いお菓子も食べるんだから。
チョコレートパフェなら何杯でもイケちゃう。
もちろん、ホルモンだってだーいすき。
でも‥‥ワルイユメは、もっとすき!
 
 
「ふあぁ‥‥眠くなってきちゃったん。
 じゃあ、今夜よろしくねん。お菓子置いておくから、食べに来てん。」
 
「カシュも早く寝るのよ~ン。
 おやすみのキッス! ン~~~~~~~マッ!!」
 
 
お別れに、濃厚なカカヌンからのキッス。
しょうがないから、夜が来るまでおうちにか~えろっと。
あ、ボクってばヒトの夢を食べるのがお仕事なのに、どうして寝るんだって思ったでしょ?
もちろん夢喰いだって、他の精霊とおんなじさ。

大好きな友達とディナーも食べたし、おなかいっぱい。
さて、ちょっとだけひとやすみ。
プレハブ小屋のような簡素な造りの家には、ベッドがひとつだけ置いてある。
大きくふたつに分けた髪の毛もシーツの海に流して、眠る準備はオッケー。
ふかふかに敷かれたお布団に潜り込んで、電気を消して‥‥おやすみなさい。
 
 
***
 
 
毎夜ベッドに入って三秒すると、カシュは決まって眠りに落ちる。
それほど寝つきが良いはずなのだが、しかし今夜は、なぜか眠ることができなかった。
髪や寝着がへばりつき、感覚的に”イヤな感じ”を覚えた。
 
 
お水が飲みたい‥‥。
 
 
しかし、ベッドから身体を起こそうとしても動かない。
縄で縛りつけられたような感覚を払おうと試みたが、何処の肢体も言うことを聞かないのだ。
神経を奪う麻酔に全身を侵されたのかと紛うほど、
動かない、というよりも、しんと反応しないと言った方が近い。

べっとりと、ねばっこいような脂汗が滲む。
一秒、二秒、また一秒と数えて、カシュは鼓動の動きを確かめる。
何故だか、呼吸をするタイミングがつかめない。
いち、に。いち、に。
何度も何度も繰り返して、カシュは調律の揃う一点に懸けた。

いち、に、さん!
 
 
‥‥ふはぁ!
なんとか、呼吸ができた。

何が起きていたのか分からないが兎に角、死の淵に沈んでいたような感覚だった。
未だに身体が、びく、びくと小刻みに震えている。
滲んで顔の表面を伝った汗を拭うべく、
カシュは目頭をこすり、角膜に染みる痛みが治まってから瞳を開けた。
そして、暗がりに浮かび上がるその光景に目を疑った。

見知らぬ赤い髪の子どもが、そこに立っていた。
憔悴した瞳で、こちらを見上げている。
 
 
キミは、だれ。
問いかけたくても、真っ白になった頭はそれを言葉にすることができなかった。
どうにもならず、唇でパクパクと空気を切っていると、
相手のものと思われる声が、直接頭に響いてきた。
 
 
『私の名前は――。』
 
 
‥‥フッとまばたきをした一瞬の後、そこには誰もいなくなっていた。
たった今、手が触れるほどの距離にいたはずなのに、存在どころか空気さえ感じない。
確かに見たのだが、幻覚だったのだろうか。

憂いをこめた瞳、小さな薄い唇、華奢な身体。
男の子か女の子かは、分からないけれど、
だが、とてもきれいな顔だったのは覚えている。

哀しそうな瞳、救ってほしそうな瞳。
縋りつくような、声。
 
 
キミは、だれ。
 
 
何もない闇の中に突然現れたかと思えば、すぐに砂が溶けるようにしていなくなった。
この幻覚の正体は、いったいなんなんだろう。
あれは、まぼろし?

カシュは、そんなことを考えながらようやく布団をはいだ。
ぬるまった汗がシーツを湿らせ色を変えていたが、
開けっ放しの窓から吹き込む夜風は対照的に、涼しげに吹き込んでいた。

そんなことより、仕事の時間だ。
カシュはベッドから下り、殆ど出入り口と化している窓に手をかけて闇夜を飛んだ。
濃赤色のカーテンが、彼女の長い舌のようにはためく。
夜のとばりが、下りた。
 
 
***
 
 
茨の絡んだ魔女の城のような外観が見えると、カシュは息を吸った。
甘酸っぱいような、ココロを煽る匂いが鼻をくすぐる。
この家――ラミアンジェの家――には、確かに悪夢が潜んでいる。

カシュは三角の窓に爪を掛けると、そっと隙間に差し入れて開いた。
室内から、女性の苦しみもがくうめき声――ではなく、
しくしくと、悲痛な鳴き声が聴こえてきた。

恐怖に陥れる悪夢ではなく、悲恋の心傷に苛まれているようだ。
悲しみに溺れたラミアンジェの表情につられて、カシュの胸もチクリと痛くなる。
 
 
恋って、こんなにツラいことなんだ。
それならボクは、恋なんかしたくないな。
‥‥なんて、ボクには全然関係のないことだけど!
 
 
床一面に広がる大きな全円スカートに生えた歯をカタカタと鳴らすと、
舌を出して大きく揺らし、ぬるりと涙でぬれたラミアンジェの頬を舐め上げる。
二つの耳は幾又にも分かれて逆立ち、伸びた毛先が首へと絡まる。
裂けた口端からは牙が引ん剝き、寝台に向かって低い咆哮を帯びた。

ずるずると、ラミアンジェの身体から黒がかった何か――これが、悪夢だ。
床を這いずりカシュからどうにか逃れようと背を向けたが、容赦はない。

じゅるじゅる‥‥ごきゅんと喉を鳴らし、悪夢を飲み干す。
長い舌を滑らせては一片の残りも惜しいと言うように慎重に舐め上げ、
残されたラミアンジェの寝姿を、切れ長の瞳で目視する。
片目は隠れたままで見えないままだが、呼吸は安らかになり、表情も和らいで見えた。
長い睫毛に絡まった丸粒が落ちると、菌糸の付着する枕の色を変えた。
 
 
「‥‥んん‥‥‥‥。」
 
 
ラミアンジェが寝返りを打つと、カシュは巨大な身体をなんとか暗がりに隠した。
この姿だけは、誰にも見られてはならない。
なぜならば、この世のあらゆるどんな悪夢を見るよりも寒心に堪えぬものだからだ。
 
 
だってこんなグロい姿見られたら、みんなに嫌われちゃうよ。
絶対、誰にも見られたくない。
 
 
その姿は、まるで醜い悪魔にココロを巣食われた狂戦士のような――。
 
 
***
 
 
狂戦士、それは悪意の権化。
ココロの隙間に入り込んだ悪魔により、少しずつ蝕まれてゆく。
精神力を高めていれば大丈夫、などという代物ではない。
屈強なココロの持ち主でも、とらわれるときはとらわれ、
どんなに麗しい容姿も、じわじわと崩壊してゆくのだ。

悪魔に齧られたココロは、いつしか元の人格を喰らう。
喰らいつくされたココロは、無いも同然。
蝕まれ、亡くされ、苦しみと怒りに溺れる。
ココロも、カラダも、その存在を失う現実。

精霊のココロは、悪魔の依り代。
悪魔が見せるのは、とびっきりの悪夢。
寄生木として選ばれたココロが救われるべきは、ただひとつ。
繰り返される「悪夢から目覚める」ことだけだという。
 
 
狂戦士の夢は、よっぽど美味しいんだろうな。
想像しただけで、ヨダレが出ちゃうよぉ。
 
 
***
 
 
昨晩会ったあの男の子は、誰なんだろう。
あれから気になって気になって、どうにも寝付きが悪い夜が続いた。
今にも泣きだしてしまいそうな、なんていう
カンタンな表現では表せないくらい、哀しそうな顔をしていたから。

名前も聞けなかった、彼の存在が気になる。
何をしていても、何を案が得ていても、くり返し脳裏に浮かんでしまう。
 
 
キミは、だれ。
かなしそうな、キミはだれなの。
ボクに、何を伝えようとしているの。

キミは、だれ。
名前を、おしえて。
ボクに会いに来るのは、どうしてなの。
 
 
「私の、夢を――。」
 
 
ふとまた、あのときと同じ感覚がした。
脳内に直接響くように悲痛な声が聴こえ、カシュはその場で歩を止める。

ゆっくり顔を上げると、そこにはあの男の子が立っていた。
男声とも女声とも取れる少し高いかすれた声で、何かを自分に訴えかけてくる。
 
 
「私の名前は――ミコト。」
 
 
今度は、はっきりと声が聴こえた。
聞き覚えはない名だが、そんなことはどうでもいい。
彼は確かに、ここにいる。
いつの日か深更の夜に見た幻が、今こうして目の前に現れたのだ。

身体の大きな自分よりも小さく、
長い睫毛で伏せられた瞳は地に向けられ、焦点が合わない。
不可解な存在であるとともに、どうしてだろうか。放っておくことができない。
ココロに、感じたことに無いざわめきを憶える。
 
 
キミは、だれ。
キミは、まぼろし?
どうしてボクのところへ来たの。
どうしてボクに何も言わないの。

どうしてボクのココロを、こんなに締め付けるの。
 
 
どっくん。
ひときわ強く心臓が高鳴った。

それは、カシュ自身のものであると同時――ミコトのものでもあった。
ガクガクとか細い肢体が狂った人形のように痙攣し、
そして直ぐに、嘘であったかの如くぴたりと停止した。
静寂、そして、歪む顔面。引攣する身体。いのちへの執着。

じわじわと目の前で浸食されていくその姿は、まさしく狂戦士への変貌だった。
悲しみを浮かべた表情が、だんだんと何か正体の分からないものに
喰らいつくされてゆくかのように、まったく無のいのちへと変わってゆく。
 
 
「ああ‥‥ア‥‥!」
 
 
意識を失い狂戦士と化したいのちは、やがて殺戮を繰り返すのみとなる。
存在していたいのちなど、はじめから何もなかったかのように。
繰り返される猟奇に、意味などはない。
自分と言う存在を、尊重されることも否定されることもなく、
ただ、無情に、奪われてゆくだけだ。
 
 
「‥‥君は、夢喰い‥‥やっと逢えた‥‥。
 お願いだ! 私の夢を‥‥喰ってくれ。君ならば――。」
 
 
悲痛な叫びを、カシュは聞くに堪えなかった。
どろどろとした混沌の想いが、まるで具現化したかのように、
ミコトの身体から黒く溶け出してゆく。
その姿はまるで、カシュが夢を喰らうときと同じ。

そう、カシュは夢喰い。
悪い夢だって、大好き。
だけど、だけど、だけど――!
 
 
「イ、イヤだ!
 どうしてボクが、狂戦士の夢なんか食べなくちゃいけないのさ!」
 
 
悪夢からの解放。
崩れ行く肉体、消えゆく自我を取り戻すため。
そんな理由を聞かないまでも、明白なのは分かっていた。
しかし今のカシュには、ミコトのその切なる願いを受け入れることができなかったのだ。

いつの間にか自分でも気づかないうちに、ミコトの存在がココロに根付いていたから。
ひとりで寂しそうな、救済を求める哀訴嘆願。
本当は、名前も言葉もなくても、分かっていた。
救ってあげたいと、思った。

そしてカシュはもうひとつ、わかったことがある。
眠りに落ちても、夢を見ることはしない夢喰い。
でもきっとキミは、ボクの夢に現れたんだ。

哀しき狂戦士の想いが形となった、夢。
夢喰いの見る夢、それは悪夢に侵された夢。

ひとりの夢喰いが、はじめて恋をするユメ。
悪魔のココロに魅せられた、叶わぬ悲しい恋のユメ。
 
 
「お願いだ、私の夢を――。」
 
 
助けたいよ。
ボクの手でしか、キミを救えないのは分かってる。
なぜなら、
キミが巣食われた原因は、ボクだから――。
 
 
「イヤだあ!!」
 
 
私は、こんなに願っているのに。
唯一の神である君に、縋っているのに。
この悪夢から、解き放たれたなら。
この呪われた眠りから、目覚めることができたなら。
多くは望まない。
ただ、普通の生活に戻るだけで良い。
普通の生活も許されないのならば、一生君に付き従ったってかまわない。
一度亡くしたいのちだ。
そして、これからもそれは止められない。
 
 
「キミにどうしてもイヤなことがあるように、
 ボクにだって、どうしてもイヤなことがあるんだよ!!」
 
 
そう、すべてが無くなるまでに、時間が無い。
時間が無いのだ。
 
 
「‥‥さようなら!」
 
 
きっとこの涙だけは、見られていないと信じたい。
一番つらいのは、キミだもん。

キミの前で、ボクのあんな姿は見せられない――。
どうしてキミには言えないんだろう。
キミの願いを聴けるのはボクだけだって、
キミもボクも、分かっているのに。

身勝手な理由。
自分よりもずっとずっと苦しんでいるヒトが、目の前にいるのに。

ボクにはどうしてもできない。
キミに嫌われたくはない。
キミに、キミだけに。
お願いだから、ボクを苦しめないで。

たった一目、会っただけなのに。
キミの顔と、キミの声と、キミの願いがボクを離さない。
夢食いであるボクを、まるで呪い、罰を下すように。

それでも、できないんだ。
ねぇ。恋って、こんなに辛いんだね。

キミを想うと、胸が痛いよ。
好きだから、すくいたい。
好きなのに、すくえない。
 
 
これが狂戦士を巣食う、悪魔のやりかた。
夢喰いが手を出せぬ依り代を見つけ、根を張り、じきに悪魔の花を咲かせる。
狂戦士の源は、悪夢。
かつて夢喰いに喰らわれた、小さな悪夢。

理由なき悪意の理由は、復讐。
夢喰いである前にひとりの女の子であったカシュを陥れる、唯一の弱点。
 
 
さよなら。
さよなら、ごめん。ごめんなさい。

さよなら‥‥ミコト。
ボクはこれから、毎晩おなじ悪夢にうなされる。
 
 

~おしまい~