『ともだちの手』


 
精霊における「死」という概念に定義はない。
それはつまり「生」という概念も、同じく定義づけられないということだ。
いのち尽きし後に転生するいのちも、また然りである。
 

[精霊の敬愛事由/著・ドロゥジーより引用]

***
 
 
「やばいやばいっ! その帽子、つかまえてーッ!!」
 
 
しんと冷たく、うら枯れた外気が霧に白く染まったある冬の日。
蒼く正円に広がる湖も、今は薄氷を張り銀色の空を反射して輝いている。

寒空に丸瓶が不可思議に浮遊しながら騒ぎ立てているように見えるのは、水精霊のヴィルディだ。
いくら水を司っている精霊とはいえ寒いものは寒いらしく、大半が彼女のように防寒具を身にまとっている。

ヴィルディが騒ぎ立てている原因――それは、毛糸の帽子が風で吹き飛ばされてしまったことだ。
瓶の中で冷水を揺らしながら、帽子が舞っていく先にいる相手へ捕まえてほしいと懇願しているのだ。

しかし、青い肌をした――齢十ほどの少年は、掴むどころか右手を上げてひらりとかわしてしまった。
帽子はそのまま風に乗り、ヴィルディの目の前で更に向こうへと逃げてゆく。
 
 
「はぁあっ!? なにーっ、イヤガラセ!? ガンムカ~ッ!!」
 
 
悪意にしか見えない予想外の行動を取られ、逆上するのも無理はない。
もはや帽子のことは忘れてしまったかのように、ヴィルディは星のヤケ食いをしながら牙を剥く。
しかしそれと同時、彼女の帽子はパフッと別の人物の頭に乗って落ち着いた。
その人物とは、心読のランプータンと呼ばれる精霊だ。
二つ名通り、彼女は他人のココロを読むことができる。

寛容な彼女はその帽子をいつもヴィルディが自慢していたのをよく記憶しており、悪戯を働いた罰としてどこかの月によって封じられたフタへと、帽子を被せ直してやる。
余談だが、瓶の内にいるヴィルディがそれで暖をとれているのかは定かではない。

それでもなおヴィルディが威嚇を続ける様を見るなり、まあまあと仲介するべくふたりの間に入るが、
少年は振り切ってその場から逃げるように駆けて行ってしまった。
その小さな背を見つめるランプータンの顔は少し悲しく歪んだが、直ぐに彼の心を読むことをやめ、
すっかり機嫌を損ねたヴィルディの方へ向き直る。
 
 
「アイツ顔はイイくせに、根暗だしツマンナイ奴~!」

「そんなことを言うものではないですよ、ヴィルディ。
 彼も優しいココロを持った子どもなのですから。」

「女の子が落とした帽子のひとつも拾えないで、何が優しいココロだっつーの!」

「こら、ヴィルディ。いけません。」

「フンだ、アタイ悪くないもーん! ぷーいぷいっ!」
 
 
ランプータンのたしなめに耳も傾けず、彼が見えなくなった後でも赤い舌であかんべをしている。
好き放題文句を垂れるヴィルディと、それを宥めるランプータン。
まったくタイプの異なるふたりの会話は、彼にとっては仲睦まじいものに聞こえた。

淡く儚い青色に満ちた聖域をひとり歩くのは、水精霊の少年――名を、ナルセスといった。
一見すると年端も行かぬ小柄なシルエットのように見えるが、ひとつ、相応しくない部位がある。

それは、氷でできた右手だ。

大きさは自身の頭を覆えるほど大きくアンバランスで、妙な存在感を放っており、
まさに溶けない氷と称され、アイシクルハンドとして知られる。
触れたすべてを氷と化し、雪粒さえも液化することを許さず、凍れば元には戻らない。

ゆえにナルセスは、極力他者との関わりを自ら持たないようにしている。
アイシクルハンドによって、自らの意志に反してすべてが氷になってしまう光景を、彼は何度も見た。

ため息を吐き、ナルセスはひとり、白く染まった地面から覗く雑草を指ではじいてみる。
指先が触れた雑草は、無論たちまち氷のオブジェとなった。
風に吹かれると薄氷がパリパリと音を立て、冷気に舞い散ってゆく様にはもう、興味などない。

ヴィルディが悪気無く零した言葉が、ナルセスの耳から離れない。
つまらない、と言われるのは慣れていたが、ちくりと凍雪が割れるような感覚がした。
ぎゅっと握りしめた右手に、ひらひらと小さな雪粒が落ちる。

眩しく瞳を細めていると、こつんと足許にぶつかった感覚がしたかと思えば、
水雪の真白な中にひとつ、赤いリンゴが映えるようにして転がっている。
つい無意識に拾い上げようと右手を伸ばそうとするが、すぐに身体が硬直し引っ込めてしまう。
また、と鉛色の空のように曇らせた横顔に、ヒュンと何かが横切る。

落ちていたはずのリンゴが風を切ったかと思えば、蛸のように吸盤を張り巡らせた青い足。
一度見たら忘れない珍妙なそれは、水精霊ウクトゥプスのものに違いなかった。
 
 
「ようよう、パスタパ!
 リンゴがおいしい季節になってきたなぁ~! オイラも食いたいぜぇ~!」

「ありがとう。ありがとう。タコさん。
 きみにも。あげる。みつが。いっぱい。おいしいよ。」
 
 
ウクトゥプスは持ち主に向かい、八本足を器用に解いてリンゴを返した。
パスタパと呼ばれたその相手は、雪まみれになったリンゴと真新しいものを持ち替え、
傷ひとつない果実をお礼に差し出す。
 
 
「ありがとよ! ときめきを感じるぜぇ~!
 こいつでポシードンのおっさんにパイを焼いてもらうぜぇ~!」

「うん。タコさん。いつも。おさそい。ありがとう。
 おじさんに。よろしく。」
 
 
今度はお礼に贈られたリンゴを大切そうに足に巻きつけ、
意気揚々とはなうたを歌いながら去ってゆく。
先と同じように、自分がいなくても事は進んでしまうことへの虚しさを感じた。
ナルセスは、彼の底抜けの明るさと、快活な気遣いが苦手だった。
ウクトゥプス自体が気に入らないわけではない。
自身に無いものを持ちすぎて、どう接したら良いのか分からないタイプだからだ。

彼のように素直に誰かを助けたかったのに、それができなかった。
またヴィルディと同じく、助けてくれなかったと嫌われてしまうのだろう。
ナルセスは、パスタパという精霊に嫌な顔をされてしまう前にその場を後にしようとしたが、
小さく先どもりした声で呼び止められ、ぴたりと足を止める。
振り返ると、リンゴを抱えて頭に雪を積もらせた子どもの精霊が、
つぶらな瞳でこちらを見上げていた。
 
 
「きみ。さっき。おてつだい。しようとしてくれて。ありがとう。
 きみにも。りんご。あげる。おいしいよ。」
 
 
ぱらぱらと粉雪を落としながら、物怖じせずニコニコと笑顔を浮かべながらリンゴを差し出してきた。
自分をからかっているのか、
優しくされたことのないナルセスは受け取り方が分からず立ち尽くしていたが、
純粋とはこういうことを言うのだろうと、ぼんやり考えていた。
 
 
「いっしょに。たべよう。
 ぼくは。パスタパ。きみは。ナルセス。だよね。」

「‥‥。」
 
 
ナルセスは、答えなかった。
けれど、小さく頷いた。
そして答えを待つより先に、パスタパはナルセスにひとつ、自分にひとつリンゴを分け与えた。

自分のことを知ったうえで、好意的に声をかけられたのは初めてだった。
こうして物をもらうのも、もちろん初めてのことだ。
首を前に振った拍子に軽くかかった前髪で瞳は隠れてしまったが、
覗いたままの唇は少しだけ、微笑んで見えた。

水の聖域には象徴として大きな噴水があるのだが、今の季節にはその水さえも凍る。
その他にも様々な水場が氷と化すと、
水晶アーティストの精霊ミズチが喜んでそこかしこに氷のオブジェを削り出すゆえに、
冬の短い間、この噴水広場はもっとも美しい場所と評される。
今もごきげんに氷を削るミズチの傍で、噴水の縁にふたり肩を並べて腰を掛け、
黙ってリンゴをひとくちかじる。

何を話すこともなく、気が合ったわけでもないのに。
ふたり、同じ時間を共有するのは不思議な気分だった。
はじめての「ともだち」と一緒に食べたリンゴは、
独りで食べるそれとは別物のように、とびっきり甘い味がした。
ナルセスは、リンゴがとても美味しいと、はじめて感じた。
また一緒に食べたいとも、思った。

雪が、しんしんと降り続ける。
エグリアには四季があるが、ナルセスたちの棲む水の聖域は氷も源泉としており、
他の聖域よりも殊更に冷気を帯びる。
そのため、意外と寒気が得意ではない精霊も少なくないのだ。
かくいうナルセスも実はそのひとりで、氷をまとっているものの耐寒さ特化しているわけではない。
一年中毛皮をまとっており、寒さが過ぎるとフードを鼻の上まで被ってしまう。
その様子がまた不審感をあおり、距離を取られてしまう要因のひとつにもなっていた。
 
 
「ごちそうさま。おいしかったね。」

「‥‥ああ。」
 
 
小さかったけれど、今度は自分の声で返事ができた。
白く漏れて外気に溶ける吐息が、ナルセスの緊張をうかがわせる。
しかしそれだけでも、彼にとっては大きな進歩だった。
少しずつ、雪が溶けるように。
自分のココロが、暖かくなっていくような気がする。

もっと仲良くなりたいと思った。
誰かと話すことが楽しいと思えることに、内心では素直に喜んでしまう。
本当は聖域中に言って回りたいくらい嬉しかったが、ナルセスにはまだその対象はいなかった。
それでも、ナルセスには十分だった。
友達ができた。
自分を好きでいてくれる、仲良しでいてくれる。友達ができた。

少し大きく荒くなった粒雪が、ナルセスの鼻先を濡らす。
じわりと冷たく溶けて、一本の線を描き顎を伝った。
 
 
「そうだ。ナルセス。ひみつの。ばしょ。つれていく。
 ついてきて。はぐれないで。」
 
 
不意に何かを思いついたのか噴水から腰を上げると、どこかウキウキした様子で自身を見上げてくる。
他意もなく手を引こうとしたパスタパを、ナルセスは不自然に避けた。
パスタパは一瞬だけ時が止まったように見開いたが、
すぐにいつもの柔らかな表情に戻り、抜け道に向かった。
道中、はぐれないように何度もナルセスの方を見返ったが、その手に触れることはなかった。
狭く敷き詰められるようにして生えた泡雪積もる草花をかき分けながら道を抜けると、そこは‥‥。

雪まみれになったふたりは、竹で覆われた小屋にたどり着いた。
 
 
「なんだ、ここは?」

「しー。じつは。T3Xの。ダンティ・ソウの。かくれが。
 ぼく。すごく。あこがれてるんだ。
 ダンティみたいに。なりたいなぁ。なりたいなぁ。」

「ふーん‥‥。」

「ナルセスは。なりたい。ひと。いる?
 おとなになったら。つよくなりたい。とか。」

「なりたい、ひと?」
 
 
パスタパが、何故かこそこそと潜め声で素朴な疑問を投げかけたその時だった。
さく、と雪を踏みしめた音が聞こえると、
ふたりを覗き込むようにして家主が怪訝そうに覗き込んできたのだ。
 
 
「誰や、ヒトん家の前で駒ねいて。」
 
 
それはナルセスでも知っている、あまりに有名な人物であった。
T3XのNo2――ダンティ・ソウ。
義賊の誇りを持ち、世俗に流されない。
どうやら最近メンバーがひとり増えたらしいが、詳しいことはわからない。
兎も角、なんとも個性的な口調のそれは、
気配もなく後ろに立っていたダンティのものであることは明らかだ。
切れ長で少し垂れ気味の目元が、涼しげな印象をより際立たせている。
ナルセスは反射的に、自身の手を馬鹿にされる前にさっと後ろに隠した。
 
 
「ダンティ。
 ごめん。なさい。ぼく。ぼく。」

「なんや、なんかまた困ったことでもあったんか。」

「ううん。あの。その。」
 
 
緊張が過ぎるのか、瞳を泳がせてしどろもどろ答えるパスタパの頭を、
雪を払ってダンティはやりながらぽんと撫でて瞳を細めた。
 
 
「‥‥連れを見せに来ただけやな。
 ええわ、かまへんよ。あんま目立つ行動せんならな。」
 
 
そう言ってダンティはナルセスを一瞥し、
白雪をひと払いしハットを被り直してから隠れ家へと消えていった。
飄々として、なんだか掴みどころのない男だが、一応歓迎はされているらしい。
自身と同じく寒さに弱いのか、厚手のマフラーで口許を隠していたのが印象的だった。
 
 
「‥‥”連れ”?」

「ともだち。って。いみ。たぶん。」

「‥‥‥‥そっか。」
 
 
ともだち。
そう口に出されると、嬉しく思った。

パスタパもはじめて訪れたらしいダンティの隠れ家には、文字通りいろいろな物が置いてあった。
そのどれもが目新しく、隣でパスタパは瞳を輝かせて眺めていたが、
実はナルセスも、何時もよりも自身の視線が光を持っていたことには気づかなかった。

コレクションされているらしい鉄砲と、切れ目の入ったウエスタンハットの数々。
そしてなぜか、魚がプリントされたペナント。

いいな、とパスタパが呟く。
あまり強そうには見えないが、だからこそ強者に憧れているのだろうか。
今度は自分から、そういう他愛のないことを聞いてみようと考えていると、
しゅた、と軽い身のこなしでダンティが再び現れた。
その口許にはマフラーではなくスカーフが巻かれており、戦闘準備は整っているようだ。
 
 
「あかん、仕事や。センベツやるから、気を付けて帰りなはれ。」
 
 
そう言うと、ダンティは駆け出し様にふたりへ何かを手渡して飛び去った。
ペナントで描かれていた魚と同じ形の菓子――どうやら、あれはたい焼きであったらしい。
暖められたそれは、冬の冷えた指に熱を持たせる。
 
 
「ありがとう。ダンティ。また。きたいな。」

「‥‥あり、がとう。」
 
 
ダンティの去った滝の方へ向かい、誰にも聞こえない声でつぶやいた。

暖かいたい焼きを頬張ると、いっぱいに詰め込まれたあんこの甘みが広がった。
ナルセスは、たい焼きを食べたことがなかった。
はじめて食べるそれに手惑い、つい右手――アイシクルハンド――で触れてしまったのだ。
ひとくちかじっただけのたい焼きは、みるみるうちに固く冷たく、氷になり果てた。
 
 
「ナルセス。はい。これ。」
 
 
いつの間にか氷の鯛を持っているナルセスに気づくと、
パスタパは何かを理解したかのように、食べかけのたい焼きを半分寄越した。
たい焼きを氷にしてしまった手には黙って、触れぬまま。
当たり前のことのように、半分こしてくれた。

余談だが、氷になってしまったたい焼きは、せめてと隠れ家の軒先に置いて帰った。
また今度来た時、まだあるといいねとパスタパは笑った。
 
 
狭い道をもう一度抜け中心部に戻ってくると、今度は噴水広場とは違う通りに出た。
夕食時になってしまったのか、ガヤガヤと繁華な通りにひと際目立って門を構えるのは、
ポシードンが店主を務める定食屋――ポシ道楽である。
でかでかと入り口の上に設置された店主の像は、
携えた巨大フォークを自動で上下に動かし、本人の声で客引きをしている。
 
 
『ヘイユー! キスミー! ミーのリストランテでイートイン!』
 
 
「あはは。ポシードンの。ごはんやさん。
 すごく。へん。でも。おりょうりは。おいしいよ。」

「俺は、タコが嫌いだ。」

「きらいなもの。ださないよ。
 ナルセス。こんど。いっしょに。いこう。」
 
 
パスタパはまた、ナルセスの知らない話をしてくれた。
ナルセスは自身が口下手ゆえに調子よく返事をしたりできないのに、食事にも誘ってくれる。
そのどれもが、独りではどうしたってわからないことばかりで、
ナルセスは楽しいと思う同時に、悲しさも感じた。
自分からパスタパに話すことが、あまりにも少なすぎたせいなのか。
それとも、今までひとつも自分のことを話したことがなかったせいなのか。
次は話してみようかと、思ったりした。

一日一緒にいても、パスタパはナルセスの大きな手には一言も触れなかった。
ナルセスにはそれが気遣いなのかはわからなかったが、とても嬉しかった。
何か事情がありそうなことも、それに触れてほしくないことも。
パスタパは、今ではもう誰よりナルセスの事をわかっているからだ。
 
 
「俺さ。実は、友達ができたのがはじめてなんだ」

「そう。じゃあ。ぼくたちは。ずっと。ともだち。
 ナルセス。ぼくたちは。ずっと。ともだち。」

「ああ。ずっと、友達でいような。」

「ナルセス。いちばんの。ともだちだよ。」
 
 
ナルセスは、笑った。
この瞬間がずっと、欲しかったのだ。

誰かと一緒に何かを話すと、なんて楽しいのだろう。
誰かと一緒に何かを食べると、なんて美味しいのだろう。

世界がこんな風に、明るく見える。
冬の日が、こんなに暖かく感じるなんて。
 
 
「そうだ。ナルセス。
 すこしだけ。ここで。まっていて。」
 
 
何かを思い出したように、答えも聞かずナルセスをそこにとどまらせて、
パスタパはどこかへ消えてしまった。
しかし約束を破る必要も、特別にどこかに用事があるわけでもないナルセスは、
言いつけ通りその場におとなしく腰を下ろし、友達の戻りを待った。

行き交う精霊たちの姿を、静かに目で追う。
昨日までは、誰にも声さえかけられたくなかったのに。
今はもっと、新しい誰かと話をしたいとさえ思ってしまう。

ぼんやりと何をするでもなく眺めていると、ふとパスタパの声が思い起こされた。

”ナルセスは。なりたい。ひと。いる?”

そういえば、なりたいヒトといえば。
自分は、パスタパのようになりたいと思った。
ヒトの気持ちが分かる。見返りなく、そばにいてくれる。
一緒にいると楽しくて、心がやわらかく暖かくなる。
凍った心を、溶かせるような。
そんな優しいヒトになりたいと思った。

ナルセスの気持ちと同じく、雲に覆われた空が晴れてゆく。
とてもすがすがしい気持ちだった。
太陽の暖かさに包まれて、この呪われた右手も一緒に溶けてしまえばいいのに。
そうココロから願うが、皮肉にもアイシクルハンドは溶けることを知らない。

眩しく自身を照らす陽光を遮るように右手を頭上にかざすと、
指の隙間から待ちかねた影が姿を現した。
 
 
「おまたせ。ナルセス。なんだか。すごく。はれたね。」

「お前を待ってるうちにな。何してきたんだ?」
 
 
そう聞かれると、パスタパは少しもじもじしながらナルセスの顔を見て、
どこか照れ臭そうに口を開く。
 
 
「ナルセス。きょうは。すごく。ひえるよね。
 だから。ぼく。これを。ナルセスに。」
 
 
パスタパが差し出したのは、片手分の大きな手袋だった。
厚手の生地で縫われた、自分の右手にピッタリのーー。

どくんと、ココロが大きく脈打ち。
ナルセスに、魔が差した。

それは、パスタパの優しさだとわかっているのに。
どこか、自分を馬鹿にしているように聞こえてしまった。
 
 
「お前さ。」

「うん。どうしたの。」

「この手の事、何も言わなかったよな?」

「て? うん。どうして。」
 
 
パスタパは、またつぶらな瞳をこちらに向けて首をかしげる。
彼の事は、わかっている。
何かおかしいことを言ってしまったかと、純粋にそう思っていることは明らかだ。
 
 
「冷える? こんな晴れた日に、どの口が言ってるんだよ。
 お前も、俺の手なんか隠した方がいいと思ってんだな。」

「ごめん。ナルセス。ぼく。そんな。つもりじゃ。
 ごめん。ごめん。なさい。ごめん。なさい。」
 
 
わかっている。
それなのに、安い自尊心が言うことを聞かない。
 
 
「…お前が俺を友達だっていうなら、握手しろ。
 俺の手は、お前が見た通り何が相手でもすべて凍りつかせる。知らないわけじゃないだろ」
 
 
パスタパだって、そんなことは知っている。
だからこそ。
大切な友達が、ナルセスが、そのせいで困っているから。
 
 
「うん。いいよ。
 ぼくの。いちばん。だいじな。ともだちの。おねがいを。」
 
 
ひとつのためらいもなく、にっこり笑って。
 
 
「きかない。わけが。ない。」
 
 
その右手さえもすべてを受け入れる証に、迷いなく手をつないだ。
パスタパの小さな身体が氷になるのは、一瞬だった。

ナルセスはその場で、声を張り上げて泣いた。
その場に残ったのは、大きな手袋。
大粒の涙の氷が。何個も。何個も落ちた。

小さな雪が、また降りはじめる。
ナルセスは誤った誓いをするしかなかった。

たった一日の夢。
こんな思い出は、かなしすぎて。
この一生、友達は作らない。
作ろうとも思ってはいけないと自分に言い聞かせて。
 
 
ぼくは。わすれないよ。ナルセス。
いつか。きっと。かならず。あえるよ。
きみが。おもいで。ないと。いうなら。ぼくは。なんどでも。きみの。もとへ。
 
 
今年もまた、冬がやってきた。
こんこんと雪が降り、小さな氷の粒がひとつひとつ、誰にも気づかれず落ちてゆく。

赤くなったナルセスの鼻先にも雪が落ち、そしてまた、気づかれずに溶けるのだった。
 
  

~おしまい~