『Memoirs』後編


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”永きにわたる精霊史上に、名を刻まれぬままのいのちがひとつ或る。
名をも語らず、もの云わず、伝心を字画にのせ、其の姿を秘し伏せんとし――
往々にして風の聖域に現れるや、或る言の葉を刻んだのち光の曲線と成りかき消える。”
 

[精霊の敬愛事由/著・ドロゥジーより引用]

***
 
 
森林の奥深く。最も自然界の生命力が聚合する中心地に、精霊王と風の青年はいた。
風の聖域には昼も夜も存在せず、寄り集まる精霊の種次第で、所により闇深く覆われることもある。
今は正に濃緑の中、ふよふよと浮かぶ木霊の光だけが彼らの姿を照らし出しており、
夜に生きる動物たちも、今は一様に身を潜めることを余儀なくされていた。

オオン‥‥と、何者かの咆哮が響き渡る。
押し潰されてしまうくらいの重苦しさで、息ができない。
木々が互いに共鳴し、何処からともなく反って、ひとつふたつと数えるうちに残響は消えた。

若幹をつんざき亭亭と太くそびえる老幹が、ミシミシと音を立てて伸び、天を差す。
厳密にいえば、大木が成長したのではない。
巨大な樹木の姿をしているドリアリーの父――精霊王オノドリーン――が、その巨体を揺すって目を覚ましたのである。

ジンディンは側近として王と常にともにあるが、正直に言えば得意とはしていない。
”精霊王”の他、”神”や”閣下”や”英雄”と呼ばれるものは存在するが、
彼にとってオノドリーンは最も尊敬に値し、同時に最も鬼門とする相手でもあった。
 
 
「ジンディンよ。」
 
 
細く頑丈な一本の糸に縛られたかの如く、肉体から心臓までがぴしりと硬直する。
たった一言、自身の名を聞き終わる間さえ、分の時間を要したように感じられた。
ジンディンは石のように強張った唇を開き、なんとか発した声でさえ上擦っているのも明らかだが、
それに気が付けぬほど今は精一杯なのだ。
 
 
「お前も、ドリアリーの様子には気づいているだろう。
 何も知らないとは言わせぬぞ。」
 
 
その問いは、実に意義深かった。
精霊王が唯一父として手塩にかけ、時には厳しく、されど最も彼女を寵愛していたことを知っている。
だが――いや、だからこそ。ジンディンは、迷いなく首を振った。
 
 
「いいえ、精霊王。
 この身を以って、ドリアリーの潔白を証明いたします。」
 
 
全知たるオノドリーンが何も知らないわけがないと、そんな当然のことは分かり切っていた。
精霊王に背くことの罰の重さ。愛娘を想う父への後ろめたさ。
自身の心さえも犠牲にして、決して成就することのない彼女の幸せを願う背徳さ。
そのすべてを飲み込んで、それでも。
ジンディンは初めて、己の想いを突き通して見せた。
 
 
「我が、何も知らぬと思うか。
 それを心得た上で、お前は娘の潔白を誓うと言うのか。」

「誓います。
 この言葉がもしも虚言であったなら、私が一切の罰を受けましょう。」
 
 
昂然たる時が、流れる。
万の葉が小さく、それでいて重くざわめいた。
オノドリーンは大きな身体を蠢かせて、やがて鋭い目を光らせるのであった。
 
 
***
 
 
少女は、知っていた。

今日という日が、傷の少年に会う最後の日になることを。
約束もなしに会えた日々が、明日からは無くなってしまうことを。

彼に出会ったその日から、ずっと胸に閊えるこの想いがなんなのか。
自分が何を伝えればいいのか、いまだに答えを掴めずにいた。

この気持ちはなに? とても、胸が苦しい。
苦しいのに、なぜか。
止められずに考えてしまうことを、あの人に伝えたい。

きっと、彼が湖にいるのは今日が最後。
そう覚悟して、ドリアリーは湖畔の森へ踏み入った。
 
 
***
 
 
少年は、知っていた。

森の少女は、この荘厳な森に棲む「形ないいのち」なのだと。
自分など手も触れられないほど高貴であり、何よりも美しく気高いゆえに、
あの瞬間から抱えたこの想いは、恋と呼んではいけないことを。

それでも、いとおしいひとよ。

俺は、あなたに。
この気持ちを伝えたい。

彼女とはもう、ともに明日の月を見られない。
そう、森の声に告げられたような気がした。
 
 
***
 
 
昨夜の雨など嘘のように静寂した湖が、ふたりの姿を映し出した。
それはさながら、すべてこの瞬間の為に作られた絵画のように美しく、儚い光景だった。
甲斐甲斐しい介抱あって、なんとか身体を起こすことができるようになった少年は、
華奢な影が見えるなり、少女を迎えるべく歩み寄る。
 
 
「会いたかったです。」

「‥‥。」
 
 
その純粋な言葉を聞いて、ドリアリーは直ぐに返事をすることができなかった。
「私も」と、たったそれだけの言葉も出てこない。
頷くことさえも忘れ、身体までもが言うことを聞かなくなる。

そんな少女の不安げな表情に気づくと、少年はふと柔らかく笑いかけた。
できるだけ彼女を悲しませないよう、なるべく普段通りの仕草で。
今日という日が、特別なものに敢えてならないために。
 
 
「あなたと初めて会った、あの日。
 俺は、いつもと変わらず絵を描いていました。」
 
 
今は顔を見ないでほしい、気づかないでほしいと願うとき、
その心を見透かしたかのように、彼は必ず瞳を細めて遠くを見る。
ドリアリーが安心するまで待つ間は、こうして前触れなく昔話を始めるのだ。
 
 
「気づいたら、この森に迷い込んでいたのです。
 草花も、虫も、動物も‥‥見たことのない色や形ばかりで、すぐに夢中になりました。」
 
 
そんな彼の横顔を、ドリアリーは黙っていたずらに盗み見るのが好きだった。
長い睫毛と、木漏れ日に揺れる、赤く切れ長な瞳。
反射する緑色が、薔薇に寄り添うあおい蕾のようにも見えた。
 
 
「でも夢中になっていたのは、花でも動物でもなくて。
 俺が本当に描きたかったのは――。」
 
 
不器用に巻かれたままの包帯がふわりと、ドリアリーの頬を撫ぜる。
風に舞う真白な曲線がふたりを繋ぎ、そして音もなく落ちた包帯の下、若々しく艶がかった肌が覗く。
傷だらけだったときは、なかなかうまく視線を合わせられなかったけれど。
今になってようやく、本当の彼と目を合わせることができた。

胸が締め付けられては、またひとつ高鳴る。
嬉しいはずなのに、苦しくて、切ない。

恋を知るには、若すぎた。
そう気づくのも、遅すぎた。
想いを馳せては、いとも簡単に盲目になってしまう。
まだまだ子どもで、身勝手な少女なばかりに。
だからこそ、身の焦がれるような愛情を抑える方が不可能だったのだ。

心拍音が速くなり、指先から全身が張り裂けそうになる。
ドリアリーは崩れるようにその場にしゃがみ込み、振り切るように首を振った。
 
 
「やっぱりだめ。言わないでいて。
 私、それを聞いたらいけない気がするの。」
 
 
少年は小さく首を傾げると、暫し口を閉ざした。
代わりに目線を合わせて腰を下ろし、乱れた拍子に落ちた白薔薇の蕾を拾い上げて見せる。
ドリアリーの纏うドレスに華やいでいたそれは、ふたりが出会った日に成った小さないのちであった。
 
 
「言いません、今は。
 けれど代わりに、俺がこの蕾をもらってもいいですか。」
 
 
ドリアリーはゆっくりと顔を上げ、小さく頷いて見せた。
この気持ちがなんなのか。
なんと表現したら良いのか、分からない。
彼が伝えようとしている言葉が、何より聴きたいのに。
 
 
「いつか来るときに、きっと伝えます。
 あなたに言わなければ、俺は必ず悔いることになるでしょうから。」
 
「ごめんなさい‥‥自分でも、わからないの。
 言葉にできないほど大きくて、私――、」
 
 
壊れてしまいそう、と、困ったように微笑むドリアリー。
その頬はいつかの逢瀬と同じくほのかに紅色に染まり、形容するそれさえ浮かばないほど、
可愛らしいと少年は真に思った。

言の葉が見つからないのならせめてと、ドリアリーは薔薇蕾に口づけ願いを込め、
煌く金髪を優しく撫で、己と揃いの位置に挿してみせる。
 
 
この蕾が、あなたを想うしるしになりますように。
花が咲き続ける限り、気持ちが変わらぬ証になりますように。
 
 
同じ薔薇の香りを分かち合うと、どちらともなく手指をひとつひとつ、絡ませる。
はじめて互いの体温を共有するように触れ合い、湖に映る影がひとつに重なろうとしたその時――
木々が芽吹き眩むほど、強い光が迸った。
 
 
「ドリアリーよ、そこまでだ。」
 
 
同じ血を通わせたドリアリーが、聞き違えるはずもない。
その声の主は紛れもなく、この森を統べる精霊王のものであった。

森に棲まう動物や精霊はおろか、根深く構えた樹齢万年の大木さえも、否応なく道を拓かせる。
片方で聖域の半分何割かを覆うほど大きな足を上げ、一歩一歩地響きを立てながら、オノドリーンはその姿を現した。
 
 
「お父様‥‥。」

「いつまでも、お前の自由を黙認しているとでも思ったか。
 我は精霊王。この森の秩序を正しく保たねばならん。」
 
 
”お父様”と呼ばれた老樹は、少年が幾ら首を上げても頂を見ることは適わず天を仰ぐ他なかったが、
それが彼女の父親であり、おそらく精霊の長であることは理解した。
頂上枝から下方枝まで各々が幹のように太く、到底想像もつかないほどの故由が刻まれている。
不連続な血管のようにぼこぼこと音を立て、土を落としうねりながら姿を変えてゆく幹面には、
屈強な眉や髭、きつく吊り上がった黄金色の瞳が隠されていた。
 
 
「形あるいのちへの想いは、形ないいのちであるお前に課せられた禁忌。
 わかるか、ドリアリーよ。お前は精霊王である、この父の娘だ。」

「‥‥。」

「父は今より、お前に愛されることが永劫無くなるのだ。
 ジンディンも‥‥また、森に生けるみなも同じくな。」
 
 
精霊界の掟。
形あるいのちと、形ないいのちが恋に落ちること。
禁忌を犯せば、その代償に大切なものを失うことになる罰を受けなければならない。 

ぎょろりと眉を潜めた瞳が、片目を薄めて少年をとらえた。
その瞳に映る自身と視線が交錯した――ように思う。
オノドリーンが瞬きをするだけで大きな土の塊が地面に落ちては崩れを繰り返し、土埃が舞い上がる。
 
 
「そしてこの男を、お前は二度と愛することができなくなる。
 しかし、これが犯した罪の代償なのだ。」
 
 
父は、娘に言った。
全てのものが、お前を愛していると。
そしてその愛情はもう二度と、返されるすべがなくなると。
 
 
「受けよ、風の女王としての罰を。嘆くがよい、失われる愛情を。」
 
 
ゴゴゴ‥‥と地層の奥深くから、今にも地が裂けてしまいそうなほど低い地鳴りが響く。
精霊王はその重い腕を上げ、ドリアリーをめがけて開かんとした。
 
 
「お待ちください、精霊王!」
 
 
ぴたりと、地響きがおさまった。
土埃を風でかき分け現れたのは――ジンディンであった。
大岩のような拳からドリアリーを護るようにして仁王立ったかと思えば、直ぐに地に額を擦り付け、
深く土下座をして嘆願に懸けた。
 
 
「王よ、私は貴方様に嘘をつきました。
 あの誓いが虚言だった場合、私が一切の罰を受けるとお約束したはずです!」
 
 
たとえドリアリーが禁忌を破り、自分の隣から離れてしまうことになろうとも。
どうか自分を罰してほしいという、悲痛な願いがしんと静まり返った森にこだまする。
すべてのいのちが生きていることを忘れてしまったかのように、風ひとつ吹かない粛然たる時は、
永遠の拘束にも感じられた。
 
 
「よかろう――ならばジンディンよ。
 貴様に一切の罰を受けさせぬことが、貴様への罰よ。」

「精霊王! それではお話が‥‥!」
 
 
オノドリーンがジンディンに科した罰はあまりに軽く、またあまりに重かった。
そしてそのまま、王が彼を振り向くことはなかった。

ジンディンは自身の無力さを悔い、長い指で土を掻き涙することしかできなかった。
地に落ちた涙は萌え立つ新緑の葉身を揺らし、哀れにも悔恨を滋養として芽ぐむかのように見えた。

その小さくなった背中を目の当たりにしては、いつまでも護られてばかりではいられない。
誰よりも厳格な父を苦しめ、誰よりも優しい幼馴染を傷つけてしまった。

そしてこんな形で‥‥誰よりもいとおしい、あなたとお別れになるなんて。

精霊に宿るいのちの時間に比べればとても短いけれど、ドリアリーは確かにひとりの男に恋をした。
この愛情が、あの記憶が、すべて失われたとしても。
ふたつのいのちが、互いに愛し合った――
その事実だけは、永遠に消え去ることはないのだ。

ドリアリーは息を吸って吐くと意を決したように顔を上げ、父に対峙して見せた。
 
 
「お父様。ジンディン。そして自然界のいのちよ。
 私の罪、私の罰。この身を持って受け、償いましょう。」
 
 
ドリアリーの纏う色とりどりの草花が、一瞬にして花開く。
それは偉大なる父への反抗にも似た、ひとり娘の孤独な決心だった。
 
 
「私は一度、死ぬのでしょう。
 あなた方を愛した記憶も、この愛情とともに忘れ、儚く散らし、消し去ります。
 これは、私のわがまま。身勝手すぎるほどの情炎への、報い。」

「‥‥。」

「私‥‥ドリアリーは今より、風の守り人として終始します。
 女王の名に恥じぬよう、精霊王の娘として生きましょう。」
 
 
少女は神妙な面持ちのまま威風たる声遣いをし、何を思い浮かべていたか。
言下に長く深く頭を下げて起こし、そして小さく口を開いた。
今も傍らに、自分の一番近くにいてくれている少年に向かって。
 
 
「それでも、最後にひとつだけ。
 愛情を持って生まれた、女の子としてのわがままを言わせてください。」
 
 
少し屈んで、彼に目線を合わせた。
こうして見つめ合うのは、これが最後。女王の名を冠する前に、伝えたいことがあった。
ずっと抱えてきた想いの名前は結局分からなかったけれど、
それはドリアリーが――最初で最後の恋をした、純然なただの少女だったからである。
 
  
「愛情を失くした私が、あなたの知る私じゃなくなっても。
 どうか、お願い。
 私より好きな人を、つくらないでいて。」
 
 
少年はその我侭を聞くと、ようやく来るべきが来たとその身をもって感じた。
”ドリアリー”としての最後の時間を託してくれたことへの感謝を込めて、
精霊王とジンディンの前で彼もまた、自身を一度殺すことを誓う。
 
 
「やっと、あなたの名が呼べる。
 ドリアリー。あなたが、好きです。」
 
 
その様子を咎めることも待つこともしないまま、精霊王は悠揚迫らず拳をやおら開いてゆく。
ドリアリーは幸せそうに微笑んでから、静かに目を閉じてその時を待った。

木々が啼き風が吹き、そして止むまでの間。
名もない感情の答えが、ややに分かったような気がした。
 
 
「好きだ。これからも――あなただけ、愛し続けることを。
 約束‥‥しよう。」
 
 
森に、ひとりの若き風の女王が生まれた。
愛情深き「形ないいのちの少女」は、もういない。
森に迷える「形あるいのちの少年」も、もう――どこにもいない。
 
 
***
 
 
「ドリアリー様。
 お茶の準備ができましてございます。」
 
 
いつもと変わらない朝。爽やかな日差し。芳しい花の香り。
今日の紅茶のは、いつかドリアリーがとても喜んだ白薔薇のフレーバー。
あの頃の笑顔を思い出したくて、執事の手は頭で考えるより先にこの花を選んでいたのだろう。

懐かしいその香りに鼻を澄ませるドリアリーの横顔は、在りし日よりも大人びた表情になっている。
 
 
「今朝、こんなものが窓から吹き込んでまいりました。
 ドリアリー様を想うどなたかが、深い情を込めて描いたのでしょうね。」
 
 
グリンシンズは紅茶ともうひとつ、古びた紙をテーブルに乗せた。
ドリアリーは瞳を伏せたまま、紅茶よりも先に、薔薇香る古紙を手に取った。
そこに描かれていたのは、柔らかな笑顔を見せる――今よりも幼い、ドリアリーの姿だった。
 
 
「そうですね。」
 
 
なぜだか、分からない。
わからないけれど、知っているような気がする。

この胸の痛みをいつ感じたかは、思い出せないけれど。
でもどこか懐かしくて‥‥心地よい、いたみ。
風の女王は、ほんのりと頬を染めて瞳を閉じた。
 
 

「誰に似たのか、まったく‥‥。」
 
 
かつて、形異なるいのち同士の血を分け俗信を破った精霊は、
白薔薇を美しく咲かせる娘を眺めてひとり、呟いた。
 
  

~おしまい~